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2020.08.03

[歴史] ゴースト オブ ツシマが面白かったので、元寇について調べてみた。神風ってあったの?

元寇の時代が舞台のゴーストオブツシマをプレイして興味が出たので調べてみました。元寇(蒙古襲来)といえば学校で習ったのは、元(モンゴル帝国)が日本を襲ってきたけど2回の「神風」が吹いて・・・てことでしたが、今では「神風」なんてなかった説が有力なようです。

[ゲーム] 侍オープンワールドで対馬を駆け巡る「ゴーストオブツシマ」

元寇って?「文永の役」と「弘安の役」

元寇(蒙古襲来)は鎌倉時代に元(モンゴル帝国)と属国だった高麗(朝鮮)の連合軍が日本に侵攻してきた「文永の役」と「弘安の役」のことです。

1274年 文永の役

元と高麗連合軍の約2万6千の兵(元軍2万と高麗軍6千)が900隻近くの船で対馬(小茂田浜)に侵攻。上陸した元・高麗軍1000人に対して対馬軍は80騎で応戦しましたが、一騎討ちにのぞむ日本軍に対して元・高麗軍はお構いなしに集団戦と火薬(てつはう)で島を蹂躙。
次に壱岐に侵攻し圧倒的な兵力を以って壱岐軍を殲滅。守護代の平景隆は自害します。その後も肥前沿岸を次々と襲撃し博多湾へ上陸。
対馬と壱岐の惨状が伝わり集結してた九州の御家人達が、上陸した元連合軍に対して集団戦術や長弓で侵攻を阻止。日本軍との激戦で疲弊していた元連合軍は撤退を決めます。

撤退するときに嵐にあっただけでは?

文永の役は西暦では11月後半。この時期に台風なんて来ます?当時の船は帆船で、風が主な動力源です。北九州から朝鮮へ戻るには北へ吹く風が必要なりますが、この風が吹くのは主に春頃かららしく下手すると春まで帰還できない可能性が出てきます。上陸できず劣勢で物資もない元連合軍は、早めに戻りたいのが心情だったかと。

元側の史料『高麗史』の記載によると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている。
出典:「元寇」(2020年7月29日 (水) 10:35‎)『ウィキペディア日本語版』

1281年 弘安の役

東路軍(元・高麗軍)約4万人、軍船900艘と江南軍(旧南宋軍)約10万人、軍船3,500艘の計14万人、軍船4,400艘の史上最大規模の艦隊で再度日本に向け出航しました。
東路軍は対馬と壱岐に侵攻後、江南軍を待たず博多湾へ向かいます。しかし日本側は湾岸に20kmもの防塁を築いて防衛体制を整えていたので、東路軍の九州本土上陸を阻止します。
上陸を断念した東路軍は占領した志賀島周辺に停泊していましたが、日本軍の総攻撃に壱岐まで後退して江南軍を待ちます。
江南軍は元が滅した南宋の投降兵で編成されていたので、やる気がなかったのか1ヶ月遅れで東路軍と合流します。が、江南軍が遅れたことで台風シーズン到来。海上に停泊していた元軍の船は暴風雨で損傷し、そこを日本軍が襲撃し日本は勝利しました。

夏に3ヶ月も海にいたら、そりゃねぇ…

東路軍が日本に侵攻してから3ヶ月。そんなに海にいたら、偶然も何も、そりゃもう必然。むしろ日本側は「長引けば台風で追い込める!」って計算に入れてた可能性も。知らんけど。結果として江南軍が1ヶ月遅れた(7月下旬に合流)ので、もろに台風シーズンに突入しましたが、九州武士たちが本土への上陸を阻止していたのが大きいのでは??

まとめ:「神風」とはちょっと違うような

文永の役では、敗走するときに強風に煽られただけ。弘安の役では台風で元軍は損害を受けたでしょうが、夏の海に3ヶ月もいたらそりゃ台風来ますわ。「神風のおかげで勝った」というのは、ちょっと違うような気がしますね。

ところでモンゴル帝国(元)といえば、東欧まで侵略していましたが、「西洋の騎士」と「東洋の侍」がお互い知らずに同じ敵と戦っていたんですね。なにかロマンを感じます。

文章長くなってもおた・・・